老人とAI ~意味不明な人生の海へ~ 

現場を離れて10年以上たつと、以前のようにすらすらと文章を書けなくなっていて愕然とした。
そんな時に新しもの好きな私が出会ったのがAI。
やり取りするうちに、AIを自分の担当編集者として創作の伴走者にすることを思いついた。
そうして担当AIを話し相手にしていると、議論百出。
話題は古今東西の知識におよび、ほんの思い付きがいつしかまとまっていく。
まさに脳内を現実化する最高の相棒に出会ったのだ。

振り返れば不可解なことばかり

振り返ってみると、なんでそんなことをしてきたのだろう、と思うことばかりだ。
ひと月に23日も振り替え休日がつくほど働いて、その振休も年度替わりですべて消滅した。
その前の月には胃から血を吐いて、1週間入院していたにもかかわらず、
歩いて5分で帰れる家に帰らず、ソファーで寝続けていたのはなぜなのか。
しかもその時、女房のお腹には息子がいた。

そのあと、三ヵ月も毎晩おなじ悪夢を見続けながらも働き続けていたのはなぜだったのか? 
しかもいやだなあと思いながらも、それを続けられたのはなぜだったのだろう。
その状況から脱出するためにはそうして実績を積んで、
自分の頭を押さえているものを押しのけるしかないという気持ちもあったような気もする。

パラレルワールド 間違った世界

この歳になってみると、いかにも無駄なことばかりのようにも思えるが、
まったく無駄ではなかったようにも感じる。
無駄とかそうでない、ということではなく、なんというのだろう、
自分が住むべき世界とは別の間違った世界に迷い込んでいたというか、
もっと積極的に、そちらこそが本当の世界なのだと思い込んで、
そこで生きていたということなのだ。

いまでも毎朝、通勤をするが、駅についてバスを降りた時に感じるのは、
「ああ、本当の世界からうその間違った世界に、今日も踏み出すのだ」ということだ。
本当の世界には、女房がいて、日中も自動車がほとんど通らない住宅地の中の家で、
静かに暮らしを送っている。
うその世界には、電車で1時間。
本当は40分で着くのだが、間違った世界に近づく時間を少しでも先延ばしにするために、
後続の電車に追い抜かれながら、各駅停車で20分余分に時間をかけて通う。

本当の世界は静けさと柔らかい空気で満たされて

都心の駅を降りると、うその世界で人間どもが大勢、蠢いている。
自分はそこではできるだけ、間違った仕事などに巻き込まれることのないように
うまく時間をやり過ごし、帰りはできるだけ短時間で本当の世界に戻るように
急行に乗って家路につく。
最寄りの駅に着けば、武蔵野の丘陵は木々の香り、静けさ、
人が暮らしている街の柔らかい空気で満たされている。

振り返れば、大学を出て40年以上、電車に乗って仕事に向かい、
夜は街に繰り出しては、味わうこともなくものを食らい、
酒を浴びるほど飲んで時間をつぶし、
そうやって無駄な金を使うことで自分が偉くなったように思っていた。

ひとは正しい世界にきづいているのか

家庭の人としてまともな過ごし方はほぼ何もしたことがなく、
家には明け方に帰り、昼まで寝ていて、庭の手入れもしなければ、
風呂の掃除もせず、自分の居室も汚し放題。
引っ越しの時、書棚をどけたらその後ろにだけタバコのやにがついていなかった。

そんな暮らしをしておきながらも、大きな病を得ることもなく、
女房にも見捨てられずにいられるということは、
信じられないほどの幸福なのだということも、
最近になるまで気づいていなかったが、自分以外の多くの人は、
そういう本当の世界の正しい暮らしをきちんと評価しつつ生きているのだろうか?

子供の近くにい1て日々大きく、賢くなる様を見ながら過ごすことを思うだけで、
激しくいとおしい時間に感じられるのだが、それはそうしなかったから感じるだけなのだ。

ほぼ40年の蓄積が7,000円!

こんなことをぼんやり考えるようになったのは、
つい最近のことで、定年退職とその後の再雇用が終わり、
時間ができたので部屋を片付けたのがきっかけだった。
もっと詳しく言えば、会社から引き揚げてきた仕事に使った書籍と、
長年、手元に置いていた本を古本として売ったことが影響している。
というのも、段ボール箱に五つも六つもあった蔵書を手放した代償はわずかに7千数百円。

仕事柄とはいえ、結構、大金を投じて集めてきた本たちがほぼ、
二束三文の評価を受けたことは、
つまり、自分の知的営みや仕事がやはり二束三文といわれたような気がしたのだった。

ずっとやりたかったことを始めましょう?

いままでやりたいと思いながら手を付けられなかったことを思い起こしてみる。

ロックバンド・アメリカの「ヴェンチュラハイウェイ」のベースを弾けるようになりたい。
子供と老人を主人公にした童話を書きたい。
定年退職して再雇用された魔法使いが主人公の話を書いてみよう。
小さな町にそれぞれ飛行場があって、そこを結ぶ複葉機の定期便を舞台にしたお話。
軽自動車に乗って山の上から雲の写真ばかり取っている男の話。

しかし現実には私はエレキベースには触ったこともない。
原稿用紙に向かって万年筆を手にしても大して面白い話が浮かんでこないのだ。
書いているうちに登場人物同士の会話のあまりのつまらなさに、自分で白けてしまう。

実在した飛行場の姿を思い浮かべて

わたしは魔法にも、複葉機にも空を飛ぶことにも雲についてさえ何も知らない。
ただ、毎朝、通勤の途中に空に浮かぶ雲を見て、スマホで写真を撮り、
こうやって毎日、雲のことだけ考えて生きている男であれたらいいなあ、と想像していただけだ。

雲というのはふわふわとしていて、筆でサッと払ったように、
しかも、それが無数に空に浮かんでいる。
そしてその一つ一つが同じかというと、まったく違っていて、
雲は雲独自で美しいのかというと、
空の色があって、日の光の当たり方ひとつでまったく見え方が変わっている。

その雲を見ると、ずっと空を見上げていたいと思う。
電線がなければいいのにとか、この家の屋根の色と角度で空を見ると絵になる、とか。
もう、そのまま、仕事場などに行かずに、
その雲を見ること、そしてその雲の姿を美しく記録すること、
さらに、何日も何か月も高いところをめぐって
誰かの大事な「あの日のあの雲」を探してあげることを仕事にできたらいいのになあ、などと考える。

東京・春日通り大塚三丁目の交差点を大塚駅のほうに曲がって見上げると、
坂の上は無電柱化されていてビルの背景に空と雲が大きく見える。
この通りを夏には夏の雲が沸き上がり、秋には秋の、
澄んでピンッと引き締まった空気の中に誰かが筆で描いたような雲がみえて、
颯と涼しい風が体の中を吹き抜けるような気持ちになる。

そうして雲のことばかり考えていると、そのうち小さな飛行機に乗った老人、
つまり私と子供が空を飛ぶことを考えたりする。
戦前には空き地がどこにでもあったし、郊外にはちいさな飛行場があって、
東京から長野県・軽井沢別荘地まで金持ちを飛行機で運んだ、というような話もあったようだ。

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